INTERVIEW:才哲治 “現実から遠ざけてくれたスケートボードが現実に戻してくれた”

2019.05.15

沖縄を代表するスケーター、才哲治。

当時はまだ日本で挑戦する者も少なかったTampa Am(世界最大規模のアマチュアスケーターの大会)に出場し得た物や、家族離散の経験から生じたスケートボードへの想い。

ホームレス経験を経てプロスケーターへの道を歩んだ、才哲治にプロスケーターとしての考え方や哲学を聞いた。

 

—— コンペティターとして活躍し、AJSAのプロ資格獲得からグランドチャンピオンになるまでを教えてください。

 

まずアマチュア時代にTampa Amに出たくて、知り合いのつてでアメリカのブランドを紹介してもらい、アメリカで2ヶ月間居候しながら紹介してもらったチームのツアーに同行しているうちに、ライダーにしたいという話をもらったんです。

それでライダーにするならTampa Am2004年)に出場させてもらうということを条件にそのチームと契約しました。

その時のTampa Amって予選を2日間やる程の人数が集まっていて、その中で一発いいのを決めると皆が褒めてくれるんですよ。

 

それが凄く自信に繋がり、自分のスタイルも確立されたので「よし!ちょろいぜ」みたいな感じで、その年の滋賀で行われた関西(AJSA)アマのサーキットに出たんです。

そしたら優勝して、次の関東アマにも出て2戦目で優勝したんですけど、当時はAJSAの仕組みがわかってなくて「全日本アマチュア選手権」に出るには関東アマは出なくても良かったんだってことを後から知ったんです。(サーキットのどこかで優勝していれば全日本アマの出場資格が与えられる)

 

その後、B7スケートパークで行われた全日本アマで優勝して3連勝(その年参戦した大会は全戦優勝)でアマチャンプになって、翌年プロクラスに上がりました。それが23歳くらい。

プロに上がった翌年からは2年連続でグランドチャンピオン(2006年、2007年)を獲ったんですけど、その次の年(2008年)はまだ小っちゃかった(瀬尻)稜に負けたんですよ。その翌年は稜に勝ってチャンピオンに返り咲きました(笑)

※AJSA年間グランドチャンピオン2006年才哲治、2007年才哲治、2008年瀬尻稜(11才)、2009年才哲治)

 

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—— プロスケーターを目指したきっかけは?

 

今はプロスケーターは決して華やかではないものだと思っているけど、元々目指すきっかけはロックスターみたいにモテたいっていうのと、華やかな世界で自分が主役になりたいっていうのがきっかけ。

そして人よりスケートボードを上手くなりたい、楽しみたい、もっといろんな所でトリックをして、同じ気持ちを持っているスケーターに会いたいとか、そんな気持ちからプロを目指しました。

 

—— スケートボードを始めたきっかけについて

 

当時はBMXをやっていたんですけど、育ったのが沖縄なので友達が軍のスクールに行ってたりとか、周りにスケートボードをやっている奴が多かったんです。

だから当然スケートボードで飛べることは知っていたし、縁石とかを滑っていくことも知っていて「飛んだり回したりスライドしたりするやつね」って感じでスケートボードを知ってるつもりで育ってきたんですよ。

 

ある日、ずっとスケートボードをやってた同級生が「仲間が少ないから一緒にやろう」って誘ってきたんです、でも全然カッコよさを感じてなかったから断ってたんですけど、そいつが「とりあえずコレを見て、もしやりたくなったら俺が古いデッキを組んであげるから」ってビデオを置いていったんですよ。

そのビデオを観ていて「あぁ、飛んでるね、縦に板を回すやつだね、スライドするやつだね」って思っていたら、フェイキーフリップの映像が流れてきたんです。それにバコーンってやられて。

「バックしながら飛んで回してる!」って。

それで全てが覆された。

俺が知っているつもりだったスケートボードは本当は全く違っていた。

「これは俺が知っているものよりも、もっと深い。だからかっこいい、やりたい」と思った。

それが18歳の時。

 

—— スケート始めたのは意外と遅いんですね!18歳で始めて22歳でAJSAアマで優勝し、23歳でAJSAプロ昇格ってすごいですね。その頃ついたニックネームの鉄人はどこから来たんですか?

 

鉄人とついたのはプロになってからなんですけど、AJSAのサーキット回っていた当時「もっと見て欲しいし、もっと殺したい(他の人をギャフンと言わしたい)」という気持ちが強くて、本当に朝からパークが終わるまでずーっと練習して、大会に出ると終わったあともずーっと練習してて。

 

結果がどうあれ「とにかく自分を見てもらいたい」という気持ちが尋常じゃないくらい強かったんです。

名付けたのは当時のAJSAMCが発した言葉から始まってるんですけど「沖縄から来たあいつ、尋常じゃないくらい滑ってるな」ってところから来たみたいです。

それがスケート雑誌の大会記事に「沖縄から来た鉄人」みたいに紹介されて、それが浸透した感じ。

最初の頃は鉄人の他にも、怪人とかデモリションマン(破壊者)とかいろんな人があだ名をつけてって、その中で鉄人だけが残った。

 

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—— 才さんにとってプロスケーターに必要なもの、大切なものはなんだと思いますか?

 

まずは(スケートボードが持つ)可能性を見せることが一番だと思っています。

昔は「子供達に夢を与える」とか言っていたんですけど、スケートボードって俺らがわかっていない可能性がもっとあると思うので、その可能性を下に伝えていくことと、その可能性をもっと広げていく責任があると思います。

その上でスケートボードを楽しむ気持ちと、伝える能力。それらを育てて、見出す能力も必要。

あとプロとして物を売るという、マーケティング部分の責任をどう果たすかっていうところ。

哲学とか考え方とかの根本がスケートボードだし、自分を大人にしてくれた物なので。

育ての親の様なスケートボードに対して、親孝行をしたいという気持ちからそう思うようになった感じです。

 

大切なことは自分らしさを出した上で人を裏切らないこと。

自分らしさを隠して人に好かれることもしないし、自分の考え方や生き方の全てをさらけ出した上で人に好かれること。

上手ければ誰でもプロになれる訳ではなく、素質がプロにしてくれると思っているし、そこに対しては、自分の才能だと思って自負している。

これは努力して得られるものではないと思っています。

逆に嘘をついてまでするほど、価値のある仕事ではないです。

 

—— プロスケーターを目指す若者に伝えたいことは?

 

見てる人や応援してくれてる人を裏切らないようにということが一番。

人の為にスケートが出来るかどうか。

そこに快感を得られるのであれば是非プロを目指してほしいし、それが出来ないのであれば仲間と楽しんでいた方が絶対スケートボードは楽しい。

これを言うとプロスケーターを目指すことが苦痛になってしまうかもしれないんですけど

俺の中でプロスケーターって華やかな世界のロックスターみたいなイメージだったんです。でも実際プロになってみると、その考えは結局独りよがりで違った。

実際はロックスターの様に華やかなものではなくて、もっと距離が近いヒーローみたいな存在。

スケートボードに限らず、スポーツ選手はミュージシャンと違って華やかではいけないと思うし、そっちの方が正しいんじゃないかなって思う。

そのスポーツを繁栄させていかないといけない義務があるから、その為に子供たちのヒーローになって、距離が近い存在にならないといけない。

いろんな面白いことが起こるけど、俺らは全て体で(滑りで)払っているし、全部払いきれているつもりでいつも活動しているから。

自分の身を削って払う覚悟がないと、プロスケーターなんてやっていけないと思うんですよ。

だからプロを目指す人に一言と言われたら「やめた方がいいよ」としか言えないです。

これは日本に限らないことなので。

決して華やかではない、それでもスケートボードが好きならぜひ目指してほしい。

 

—— 沖縄でプロ活動を続ける理由はありますか?

 

どの業界でも同じことが言えると思うんですが、中心で何かが作られた時にそれを地方にフィードバックしていかないと、そこ止まりになったりすることがあるじゃないですか。

そうならない為には地方に駒がいないといけなくて、その駒がちゃんと動けていれば物事は上手くまわっていくと思うんですよ。

自分で出来ることや、やらないといけないことをたくさん持つ中で、新しいものを作る為の一つの駒として動かないといけない時期がくる。

自分のエゴや、やりたかったこと、考えてきたこととは別に、やってきたことを活かしたり、次に繋げるものを持っているのであれば、駒として使ってもらってそれでスケートボード自体が育ち、死なずに済むのであれば歯車やピースの一つとしてでも何か出来ればいいかなみたいな。

地方からプロになった以上、僕にはそれをやる義務があると思っているのでずっと沖縄で活動しています。

 

—— 公式プロフィールには奄美大島出身とありますよね?

 

3歳から沖縄にいるんですが、奄美大島には父ちゃんの墓があるんです。

23歳でAJSAのプロに上がった後、初めて里帰りして墓参りに行った時に自分の親戚とかがスケーターだったことを知ったと同時に、皆が自分のことを知ってくれていたんです。

奄美では俺のことを「奄美大島生まれのプロスケーター」と認知してくれていて

あの島には俺の居場所があったんですよ。

自分のルーツを知る人たちが応援してくれている。

だから奄美大島出身。

 

—— 沖縄スケーターの特徴は?

 

下手の目立ちたがり。

沖縄の大先輩で言うと宮城豪さんなんですけど、あの人がレールをやり始めた理由が「誰もやっていないから」なんですよ。

俺らも同じ気持ちで、下手なりに自分で魅せれるものを一生懸命追求する。

俺ボンレス好きじゃないけど、魅せれるものを追求していったら今のスタイルになったし。

 

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—— どんな人と動いていきたいですか?

 

自分の中ではスケートボードって上手い下手関係ないし、好きであれば同じスケーターだと思っているんで、スケートボードを応援してくれたり、見てるだけでも楽しんでくれる人とか、そういう人たちも含めてスケーターだと思っています。

そういう意味ではずーっとスケーターと一緒にいたいです。

滑ってなくてもいいんです、スケートを好きな人が俺のことを理解してくれて一緒に何かやっていければ。

 

—— スケーターとして大事にしていること、これだけは譲れないというものは?

 

感じることを意識している。

ウィールの回転だったり、ベアリングの音だったり、デッキを弾く音や擦れる感触など、スケートボードが起こすアクションを常に感じるようにしています。

プッシュにしても、1回目と2回目の伸びしろの違いや、路面を感じたり風を感じたりとか、スケートボードが連れてってくれる感覚がいっぱいあると思うんです。

音にしても感触にしても、スケートボードが与えてくれるものを出来るだけ逃さずに感じたい。それはいつも思ってますね。

今の若い子は皆イヤホンしてますけどね(笑)

まぁ自分もたまにしてますが

譲れないものはないですね。僕は何でも譲ります。

自分が大切にしているものでも、もっと大切にしてくれる人がいれば全然譲れるんで。

グレーをグレーで守るためにどうやっていくか

—— 日本のスケートシーンについて考えることはありますか?

 

少し前は納得がいかない部分が見えて携わっている人に「考え方が甘いんじゃないの」という意見もありましたけど、最近いろんなことが日本のスケートボード業界で起きている中で、若い人材もたくさん育ってきているじゃないですか。

まぁ文句も言うし毒も吐くし、上の連中には変わってもらわないとダメでしょって気持ちもあるけど

新しい子たちが新しい時代を作るには十分な人材がいっぱいいると思うので、俺らみたいな古い人間はそこに対して口を出さなくていいんじゃないかなって。

でも「続けたもん勝ち」とか言ってる自分はその中に入っていくとなると、自分を変えてシフトチェンジしていかなきゃいけない。

そういう所で自問自答な部分はあるけど俺らが生きてきた場所だから、なんとかなるんじゃないかなって。

—— 日本のスケート業界について

 

オリンピック競技になってスポーツスケートボードというジャンルや要素が生まれたことで、世界中が模索している所ではあると思うんですが、日本に限らずスケートボード業界が今後やっていかないといけないのは新しい物を別物として作っていかないといけないという事。

オリンピック開催国として、特に日本のスケート業界はスポーツスケートボードっていうものをしっかり見据えて動かないといけないと思ってて

否定派の人はたくさんいると思うんですけど、必ずこの新しいムーブメントはスケートボードにとって大きな影響力がある。

それをみすみす捨ててはいけないし、そこをちゃんと育てることで今後スケートボード業界をもっと良くしていけるはずです。

その為には、グレーをグレーで守るためにどうやっていくか。

日本のスケート業界はもっと考えないといけないし、皆が連携してやってかないといけない気がします。

それにはやっぱり腹をくくることが必要なんじゃないかな、スケート業界全体が。

スケートボードが生まれてから何十年も経った今でも、ずーっと議論している。しょうもないんですよ、スケートボードはそんなものじゃない。

—— ではスケートボードがオリンピック競技になることについて、才さんの考えを教えてください

 

やっぱり今までのスケートボードとは別物で、僕らはストリートスケートボードをメインでやってきた上で、自分の場合コンペティター(コンテストメインのスケーター)というどっちかというとスポーツの要素でやってきた部分もあるから、そういう要素もわかるしコンテスト出てた頃は、そのニュアンス(スポーツアスリートとして)で自分のコンディションを整えてきた所もあるから理解もあって、オリンピックに対しては賛成派なんですよ。

アメリカでトニーホークの父親が立ち上げたナショナル連盟が出来た当時(当時は協会)掲げていた目標はスポーツとしてのスケートボードを確立する事だったし、長年に渡ってそこに携わってきた人たちが夢見たことがやっと実現する機会でもある。

そこには業界全体でそれぞれの役割があると思っていて、その役割を果たす義務があると思うんです。

オリンピックというスポーツスケートボードだけを盛り上げるというニュアンスではなくて、オリンピックというスポーツスケートボードをしっかり作る立場の人間が必要だし、今までのスケートボードを守るという立場も必要で、プロスケーターに限らず個々のスケーターにもその義務がある。

俺にとって「スケートボードは○○(カルチャーやスポーツなど)」という議論自体がナンセンスで、そこに捉われていたらダメ。

スケートボードが生まれてから何十年も経った今でも、ずーっと議論している。

しょうもないんですよ、スケートボードはそんなものじゃない。

スケートボードはただの乗り物であり、ツール。

使う人間がスポーツとして使うか移動手段として使うか、レジャーだったりアートだったり、まとめてカルチャーと言う人もいれば、スケートボードを見て楽しむ人も居たりする中で、スケートボードを一括りに決めちゃうこと自体がナンセンスだと思う。

一つのジャンルとして、スポーツスケートボードという可能性が実現してきた今、それを成功させることを皆で一生懸命やれば、新たなスケートボードの可能性が生まれるかもしれない。

だからオリンピックは楽しみだし、出来ることは協力していきたい。

 

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—— スケート人生で最も影響を受けたことは?

 

滑っている人だけじゃなく、応援してくれる人や見ることが好きな人たちと出会えたこと。

若い時は「滑ってない奴らは信用できない」みたいな気持ちがあった中けど、スケートしてない人たちの中でも「スケーターが好き」と思ってくれる人達がいて、その人たちがこんなにも俺に力を使ってくれていると感じた時に絶対に裏切れないと思ったんですよ。

俺はその人たちの為に、スケートしたいという気持ちが強いです。

ありがたいことに自分の周りにはそういう人がいっぱいいて、スケートしてないのに本当に心から応援してくれたりとか、スケートボードを全然知らないはずの人たちが自分のスケートを通して関わってくれていることがめちゃくちゃ大きいです。

そこから学んだこともいっぱいあって、本当に信用できる人って案外そういう人たちなんです。

なのでスケート人生で最も影響を受けたことは滑らないスケーター達に出会えたことです。

 

ちなみにセッションって言うと良い風に聞こえるけど、これってコミュニケーションなんですよ。

相手が言った分しか返さない、ランゲージの一つ。

語って来れば答えるし、語らなければ答えない。

それがセッションのルールであって、独りよがりで見せるのとは全然違う。

相手が被せて自分が被せて、お互いが同じレベルの中でセッションして成り立つので。

だからセッションではなくて、完全に受け身の人に対して与える。

俺の中では何と言うか接待みたいになるんですけど、それを喜んで、感動してくれた人がスケートボードでは返せなくても、歓声とか自分の出来ることで返してくれる。

スケーターに見せることよりも、スケートを愛してくれている人に見せることの方が大事なことだと自分の中ではずっと思っています。

 

—— スケート人生で嬉しかったこと、つらかったこと

 

毎日嬉しいですよ。

いつも違う乗りものだと思ってるし、毎日が奇跡の連続だと思っていてオーリー1つとっても100回やって100回同じオーリーってどんなに練習しても出来ない。

必ずちょっとしたタイミングが違ったり、高さや音、指の開きが違ったり、顔、目線が違ったり。だから完璧な技なんて無いと思うんですよ。

どんなに簡単な技でも一回一回が違う技だと思うし、一回一回が奇跡の連続なんです。

その奇跡を毎日、何百回も何千回も味わえることは特別なことなので、すごく幸せだと思う。

こんなこと言いだすと哲学なんですよ、インタビューすることでもないんですよ哲学なんて(笑)

 

つらいことはしいて言うなら時間がないこと。

“つらかったではなく“つらです。

人間の一生ではスケートボードを楽しむには短すぎますね。

まだまだやりたいことがあるし、感じたいことがいっぱいある。

 

—— スケートボードで得られたものの中で、一番素晴らしいものは何ですか?

 

自分自身です。

仲間とか言いたいですけどね()

絶対の自分を教えてくれたのは、スケートボードです。

とにかくスケートに逃げることしか出来なくて。向き合えなかったんですよ、家族の危機に。

—— 才さんのYoutubeチャンネル「panic room project」にはどんな意味があるんですか?

 

 

シェルターとか、何か災害があった時に逃げる為の部屋あるじゃないですか。そのパニックルーム。

スケートボードを始める前の自分はコンプレックスの塊だったんですよ、重度の対人恐怖症と引きこもり体質でいつも自分に自信がなくて、そんな自分を変えたい気持ちがすごく強くて

そんな中でスケートボードが自分らしくしてくれたと同時に、スケートボードが自分を現実社会から遠ざけてくれたんです。

そしてスケートボードで育ててもらった自分が、気が付けば現実社会に戻ってこれた。

スケートボードは自分の中でのパニックルームだと思っています。

まだ母ちゃん生きているんですけど、たぶん亡くなったら葬式の日に滑りに行くと思います。

辛いことや悲しいことがある時、自分が本当に逃げたい時に必ず助けてくれるのがスケートボードなので、そんな日に限って1人で滑りに行きますね。

あれ?俺ホームレスだったの言ってなかったでしたっけ?

 

—— 初めて聞きました。

 

ホームレスだったんですよ、プロに上がる2年くらい前。

借金とかでバタバタして家が無くなって家族もバラバラになり、親と兄弟7人露頭に迷ったんです。

みんな誰かを頼ったりして、行き先が決まってなんとか生きていけるように進んで行ったんですけど、その時に俺が選んだのは「スケートしたいから公園に住む」という手段だったんです。

スケートする為にずーっとローカルスポットの公園に住んで、トイレをお風呂がわりにして。

仲間たちと夜中まで滑って、午前2時~3時になるとみんな帰っていくんですけど、寒い日だと自分は寝床を探さないといけないので、無人のコインランドリーで寝たり、ダンボールに包まったり、夜勤の奴の家に夜の間だけ寝かせてもらったりとかしてたんです。

食事はお金がないから8枚切りの食パンを買って、マヨネーズ塗って一日2枚づつ食べてましたけど、もちろんそれじゃ足りないからゴミ箱漁って捨ててある弁当食ってたっす。

そんな生活が一年経たないくらいかな。

とにかくスケートに逃げることしか出来なくて。

向き合えなかったんですよ、家族の危機に。

全ての現実から俺を遠ざけてくれたのがスケートボードで、逆に現実に戻してくれたのもスケートボードだった。

自分にとっては母なるスケートボードであり、親父みたいな強さも与えてくれた。

あんまりおススメ出来ない生き方ですよね。

 

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—— そんな人生を送ってきた才さんがスケートボードに伝えたいことは?

 

これ意地悪な質問じゃないですか?

使う人次第で何にでも変われるものだから、敢えてただの道具だよと伝えたいかもしれないです。

自分にとってはずーっと持ってるコンプレックスや自信が持てないことに関して、自分の代わりに何かを伝えてくれる分身みたいな部分もあったりする。

俺スケボー持ってればスタバにも行けるし(笑)

何をやるにも手伝ってくれる相棒なんで、伝えたいことはと言われると「これからもよろしくお願いします」になっちゃう(笑)

でも(板とか)結局捨てるじゃないですか、そうなるとこういうインタビューではあまり美化したくない部分もある。

スケートボードは11回が奇跡で、同じトリックはほとんど無いんですよ。

その時の板の状況とかで新しい感覚とかいっぱい得られるものなんで、板がボロボになってめっちゃオーリーしにくくなっても「まだ何か得られるかも」みたいな気持ちが起きたり「こんな動きするんだ」とか気付きがあったりする。

 

—— 才さんほどボロボロになるまでデッキを使うプロスケーターは見たことがないです。

 

二日酔いみたいなもんで、楽しんだ代償ってあるじゃないですか。

例えばオーリーしなければテールは削れないし、スライドしなければグラフィックは消えない、プッシュしなければ靴底もウィールも減らない、パワースライドしなければウィールの形は変わらないし、グラインドしなければトラックも削れない。

それがわかってるのにやるわけじゃないですか。

わかってるのにやる理由は何なのか?

それは何かを犠牲にしてでも得たい快感があるからで、誰かを犠牲にしてでも自分が幸せになりたいエゴのような物なんですよ。

 

こういう取材だったり、デモの時はサポートしてもらっている責任や、最高のパフォーマンスをしなければいけない時だったりするので変えるんですが、エゴに対しての罪悪感が少なからずあるので、出来る限り「その代償を楽しんであげよう」という気持ちもあってボロボロになるまで使う様にしてる。

これは消耗の哲学みたいなものだから、伝えなくてもいいと思うんですけど

 

—— プロスケーターはデッキをポンポン変えますよね

 

1つだけ言いたいのが、昔俺らが目指したキラキラしたプロスケーターってグラフィックが消えてもないのにデッキを変えたり、人によってはめっちゃいい匂いする人がいたり(笑)

でも今になって思うのはロックスターじゃダメってこと。もっと身近な存在を目指して、泥臭くヒーローにならないとダメなんだって感じた時に、板をポンポン変えるプロスケーターじゃダメじゃないかなって思った。

「だからスケート業界って大きくならないんじゃないの?」って。

みんながプロを目指してスポンサーが欲しい欲しいって言うのはタダで物を貰えるからというよりも、どんどん物を変えないといけないって思ってるからなんですよ。

それは今までのプロスケーター達が伝えて来たものが間違っているんじゃないかと思う。

プロスケーター自身が物を大事にして「そんなに頻繁に物を変えなくてもスケートボードってもっと楽しめるんだよ」っていうのをプロ自身が体現していかないと、今後良いプロスケーターが生まれないんじゃないかなって思ってて、物を大事にすればそんなにお金を使わなくてもスケートボードって楽しめるし、年にデッキ2本くらい変えればスケートボードって続けられるんだよって伝えたい。

 

2週間で板変えるよね」みたいなプロばっかりだし、業界内からも「このくらい使ったら変えないといけない」って植えつけた所もある。

自分も一時期、全然違いなんてわからないのにプロだから変えないといけないみたいな時があったけど、それってスケートボードのハードルを上げている感じがするんですよ。

そういう流れからボロボロになるまで使うようになったんですけど、そうなると「物が売れない」とか言われちゃうから載せるのやめて下さいよ(笑)

 

—— 才さんにとってプロスケーターとは何ですか?

 

責任です。

全てを伝えていく責任、守っていく責任、可能性を見出す責任。

それをこの時代のプロスケーターがちゃんとやっていかないと、次の時代のプロスケーターはまた一からになる。

60点くらいかなぁ。

堅い人って思われそう(笑)

 

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—— 最後にセッティングを教えてください

 

デッキはムラサキ限定で販売しているTUFLEG才哲治モデルの8インチ。

トラックはIndipendent149、軽いのが好きなのでFORGED HOLLOW

本当は8インチだとトラックのサイズは139なんですよ。なんで149をつけるかっていうと今のウィールって細いから、ウィールのアウトラインとデッキを一緒にしたいんですよ。

シャフトの端に板を合わすとウィールが内側に入っちゃうんで、そうなるとちょっとトラックの反応が早すぎる。

ウィールのラインにデッキを合わすことによって、自分は反応がしっくり来るんです。

なのでトラック149にデッキ8の組み合わせになるんです。

本来乗り心地でいったらウィールはアウトラインがデッキと一緒が一番いいんですよ。

ただトリックをするという面で突き詰めると少し変わってきて、実際これはしゃくりにくいセッティングになるんです、だけど乗り心地は気持ちいい。

トラックの反応をダイレクトに感じれるっていう部分でいうとこのセッティング。

ウィールはTUFLEGから出ている自分のモデルも調子いいけど、もっと突き詰めてTUFLEGのウィールを良くしたいから今使ってるのはTUFLEGのサンプルウィール。

自分のベストサイズは51前後。

ウィール自体にこだわりはいっぱいあるんですが、いつも自分が求めているのは猫の手を探している感じ。

猫の手はすーっと滑るし、爪でガッと止マル。TUFLEGのウィールはそれを目指して作っています。

ベアリングは男ならボーンズスイスです。

ブッシュはボーンズのハードコアブッシュ、カップワッシャーも入れてます。

固めにしてるけど、樽型なので反応が早いのと反発がしっかり来る。

本来ハードコアブッシュだとカップワッシャーはいらないんですけど、カップワッシャーを入れることによって、反応が早くなるのと角度がつきすぎない。

カップワッシャーを抜くとトラック自体に角度がついてしまうので、従来のインディーの角度のままいけるようカップワッシャーをあえて入れてます。

 

【才哲治 スポンサー】

ムラサキスポーツ・TUFLEGIndypendentmizu・琉球グリップ・vistas

 

ありのままの自分で好かれることがプロスケーターとしての条件と語る才さん。

その言葉を受け、より才さんを知ってもらえることに繋がると信じてホームレスだった部分などはカットせずに、あえてそのままの言葉を掲載することにしました。

昨年、才さん達のスケート撮影に同行していた時に聞いた言葉で、忘れられない言葉がある。

「スケートボードに対する冒涜だ」

これは、ある中学生がどうしてもトリックをメイク出来なくて、半ば諦めながら撮影を続けていた時に才さんが放った言葉。

今回のインタビューで、あの時才さんがこの言葉を放った心境が少しわかった気がした。

スケートボードに育てられ、スケートボードに救われた男にとって、彼の姿勢が許せなかったのだろう。

大なり小なり、誰にでもパニックルームはあると思う。

その中で自分のパニックルームは絶対に何が何でも大事にしなくてはならないそう思わせてくれたインタビューでした。

 

写真・文 小嶋 勝美

東京都荒川区出身。芸人上がりの放送作家。

秋葉原時代から東京のスケートシーンをこっそり見てきました。『プロ野球・サッカー・スケートボード』じゃなく、スポーツやゲームなどに並ぶカテゴリーの一つとして日本に大きくスケートボードが根付く事を信じて記事を執筆しています。

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